PETAPETAからリブログ
「なんでヒーローは技名を叫びながら必殺技繰り出すの?」って質問に対する『アンパンマンが無言でバイキンマン殴ったら子供泣くだろうが。』って答えが忘れられない。
SYM MCSGからリブログ

イタリアのサッカーの試合で、ゴールエリァのファールを取られてフリーキックになったことがありました。

誰もがエーッとなりました。

攻めている側もわかるミスジャッジでした。

サッカーは、ミスジャッジも含めたゲームです。

「いただき」でシュートを打っていいシーンです。

フリーキックをする選手は、フワーンと蹴って、わざとはずしました。

誰もが大拍手です。

最終的には、わざとはずしたチームが勝ちました。

サッカー場にいた人は最高のシュートを見たのです。

両チームとも「いまのは誤審」とわかって、もう1つ上の試合をしています。

見た目の試合に勝って生き残るよりも、記憶の中に生きのびています。

みんなの記憶の中に生き残ると同時に、気持ちが自分自身の人生に残ります。

審判に決められることではないのです。

ギリギリセーフかギリギリアウトかは自分の中の判断です。

ぶちキレそうなところを「危なかった。いま怒るところだったよ」というのはセーフです。

ぶちキレそうだったのがぶちキレていません。

「許した」もセーフです。

審判のミスジャッジに、「いまのはおかしい」と食ってかかるのを、ファンは見たくありません。

審判に食ってかかるのを見たくて、競技場へ行っているのではないのです。

ミスジャッジでも「いまのファールは厳しいよね」と言いながら見ています。

そんなこともあると、選手も見ている人もわかっています。

審判も「しまった」と思っています。

すべての人がここで救われるのです。

審判は、「フリーキック」と言ったあとで、「ゴメン、いまのはちょっと違った」とは言えません。

フリーキックをわざとはずすことで、審判の面子もつぶさずゲームの続行を共有できます。

これが大人です。

子どもは、みんなが感動しているのを見て「スポーツっていいな」と思います。

ただ勝つよりも上の世界があるのです。

» ギリギリセーーフ (via irregular-expression)

「ゴールエリアのファールを取られてフリーキックになった→誰もがエーッとなった」←推測でいいから、詳細プリーズ

(via scsa)

質問の投げ方もすばらしい。

必ず“5W1H”の問いかけをしており、YES/NOで答えられる質問は絶対にしない。単純な回答の応酬では会話が途切れてしまうからだ。“バイトの子が自分の言葉で語る”のを重視しているようだった。

そして質問する内容は、具体的・客観的な内容よりも、抽象的で主観的なことを語らせようとしていた。あくまでも“語らせる”であって“聞き出す”ではないのがポイントだ。たとえば職務上のミスについて、ミスを犯した原因を分析したり、具体的な対処策を考えたり――そんなことは後回しにしていた(それらは上司であるマネージャーが考えることであって、バイトが考えることではない)。ミスをしたときにどんな気持ちになったか、ミスをしたとき周りのスタッフはどんな気持ちになったと思うか……。そういう“感情”の話を、バイトの子に語らせたのだ。

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男子高校生が図書館に本を返します。女性の図書館司書(実験協力者)が「ありがとうございます」と受け取ります。その時に司書が高校生の気付かない程度に手に軽く触れます。
すると高校生の、その司書への好感度が上がるのです。
 手をチラッと触れられた高校生の方がそうでない高校生よりも司書を「魅力的」と思う割合が高まるわけです。本人が触れられたことに気付いてない場合でも、好感度が高いのです。さらに面白いのは、「魅力の理由」を尋ねられた時、
「笑顔が素敵だったから」「髪型がいいなぁと思った」
と、高校生は手に触れられたことに気付いていないので、自分の感情の理由をでっち上げてしまうのです。
・・・実験の根本の差異である「手に触れられるか」が、本当の理由ですが、本人はそれに気付いていない。
すると、人は自分の好悪の理由も分からないまま、本来の理由と異なる理由をこじつけてしまう。この脳の性質は「作話」と言われます。
— (池谷裕二『ゆらぐ脳』P84より) (via breathnoir) (via raisec) (via petapeta) (via yaruo, breathnoir-deactivated20120117) (via quote-over100notes-jp) (via hikutuo) (via magurohd) (via nanikano) (via mmmmmmmmmy) (via toshikin3) (via amenokg) (via odakin) (via yasufumic) (via deli-hell-me) (via yaruo) (via appbank) (via shinoddddd) (via hanemimi)
100ミリたんぶらからリブログ
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気遣いというのは、人に“明に”気づかれたら二流だ。「気を遣わせてしまったな」と思わせてしまうからだ。相手に負担をかけないようにしている行為なのに、別の面(心理面)で負担をかけるなど、言語道断。

 だから目に見えて分かりやすい気遣いをする輩は、私は却って好ましくなく思う。だいたい、美しくない。気遣いというのは相手への配慮でなく、自分の美学に過ぎない。だから分かってもらう必要など無い。自分自身が理解しておればそれで十分である。

 とはいえ、そのようにした気遣いに“暗に”気づいて、真似して返してくれることほど嬉しいことはなく、しかしその「お返し」に気づいたことは心に留め置き相手を褒めることはしない。ただ良き心証をのみ持つ。これでよい。

仕事が早いのふしぎ - 図書館断想 (via hanemimi) (via sandman-kk) (via kml) (via shrineroof)

2009-06-17

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わたしはわりとこっち派だが、この辺の価値観の違いでだいぶんおくさんといらん喧嘩をした(他人を変えようとしてはあかんですの。変えられるのは自分だけ

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日本にいると、いちばん落ち着く。米国が嫌いなわけではないが、ニューヨークに帰ってくるとショックを受ける。物を買っても、ありがとうとも言われない。今日も医者に診察してもらったが、「ワイシャツを脱げ」といった調子だ(笑)。それに比べて、日本のお医者さんの丁寧なことといったら。人間と動物のいちばんの違いは「礼儀」である。
892 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします : 2011/08/20(土) 21:48:40.49 ID:c/47J95V0 

クラゲの視力は異常に高く、しかしそれを処理する脳はない(ここまで既出)

これは、海全体が一つの生き物であり、クラゲはその目だからである、というふざけた、しかしなんともロマンティックな仮説もある


- カオスちゃんねる : 驚 愕 す る 動 物 雑 学 挙 げ ろ (via 13py2)
「人生の教訓」(作者不明)



私の人生でまなんだこと・・・

 

6歳のとき

「きよしこの夜」を歌いながらいつも泣くから

わたしはその先生が好きなんだとわかった

 

7歳のとき

飼ってる犬もわたしと同じでブロッコリーが嫌いなんだとわかった

 

9歳のとき


田舎の人は 手を振ると

仕事の手を止めても 手を振り返してくれるんだとわかった

 

12歳のとき

お部屋を便利なように整えると

ママはもう一度片付けろと言うことがわかった

 

14歳のとき

元気になりたいと思ったら

誰かを元気付ければいいとわかった

 

15歳のとき

認めるのは嫌なんだけど

パパとママが厳しいのはいいことなんだとわかった


24歳のとき

アドバイスの言葉よりも

何も言わずにそばにいてくれる友達の方が

心を癒してくれるとわかった

 

26歳のとき

わが子の髪をとかしてあげることは

ほんとうに幸せなことなんだとわかった

 

29歳のとき


わたしが行くところにはいつも

この世で一番運転の下手な人がついてくるんだとわかった

 

39歳のとき

誰かがわたしの悪口を言ったら

自分は 誰もそれを信じないような

生き方をすればいいんだとわかった

 

42歳のとき

本当は自分をとても大切に思ってくれているんだけど

その示し方がわからないだけという人がいることを知った

 

44歳のとき

ちょっとした手紙を送るだけで

誰かの一日をいい一日にできるんだとわかった

 

46歳のとき

自己嫌悪の強い人は

他の人を責める気持ちも強いとわかった

 

47歳のとき

おじいちゃんおばあちゃんと孫たちは

自然とチームを組むものなんだとわかった

 

48歳のとき

今日 何があろうと どんな悪いことが起ころうと

人生は続いていくし 明日はいいことがあるんだとわかった

 

49歳のとき

聖歌の「アメイジング・グレイス」を歌うと

とても元気になることがわかった

 

50歳のとき

ホテルのベッドのマットレスは

電話の傍じゃない方が寝心地がいいとわかった

 

52歳のとき

この3つのことをどう処理するかで 

男の人はだいたいわかると知った

雨の日

なくし物

こんがらがったクリスマスツリーのライト

 

52歳のとき

自分で野菜畑を作るのは

いっぱい詰まった薬箱と同じ価値があるとわかった

 

55歳のとき

親とどういう関係にあろうが

親が死んだら本当に悲しいものだということがわかった

 

58歳のとき

「生きること」と「暮らしていくこと」は

違うんだとわかった

 

61歳のとき

子供に良くしてやろうと思ったら

まず自分の夫婦関係を良くしなければいけないとわかった

 

62歳のとき

人生には二度目のチャンスが与えられているとわかった

 

64歳のとき

両手にキャッチャーミットを持ってたらいけない、

何かを投げ返せるようにならなくてはいけないとわかった

 

65歳のとき

幸せそのものを追い求めればそれは逃げていくけど

家族と、他の人の必要と、新しい出会いと、

ベストを尽くすことを心がければ

幸せが自分を見つけてくれるんだとわかった

 

66歳のとき

優しい心で何かをする時

それはたいてい正しいことだとわかった

 

72歳のとき

誰にでも祈ることが必要だとわかった

 

75歳のとき

奇跡を信じる者は報われるとわかった

実は わたしもいくつか奇跡を目撃したので

 

82歳のとき

苦しみがあっても

誰かの苦しみの種になる必要はないとわかった

 

85歳のとき

毎日誰かと触れ合うことが必要だとわかった

握手でも、抱擁でも、軽く背中をなでてやることでもいい

人は人のぬくもりが必要なのだと

 

 

92歳のとき

まだまだ学ぶべきことがたくさんあるということがわかった
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がんばっても「行動」が変えられない。「自分」が変えられない。

 「いや、先生。そうはいってもカンタンに行動なんて変えられないですよ」

 僕はカウンセラーの先生にキッパリそう伝えた。
 もう30年以上生きているし、今まで何度も行動を変えようとトライしてきた (そして、失敗した…)。そんなアドバイスで解決しているなら、とっくにやってるよ、もう。

 僕の頭のなかは、悩みではち切れそうだった。
 仕事、人間関係、お金、将来不安…。

 あ〜ぁ、これから、どうしよう。嫌だな。考えるだけでため息がでる。毎日がブルーマンデー。ストレスのせいか、気晴らしにお金と時間をつかってばかり。

 明日はまた晴れるのに、僕の心は曇り空のように暗い。
 こんな自分、変えたいぜ。 

先生が持ちかけた とある「ゲーム」とは?

 「ひとつ聞いていいですか」

 「あ、ハイ、大丈夫です」
 悩みでポケーッとしていた僕は我にかえってそう応えた。


「あなたは今、”記憶喪失” になったとしたら、幸せですか?不幸ですか?」

 カウンセラーの先生は、不思議な質問をした。

 少し想像してみた。
 記憶喪失になったら、この嫌な気持ちもないし、将来の不安も、過去のプチトラウマも消えるし、アイツにムカついた出来事も忘れられるのか…。

 …幸せかもね。

 「そうですね、たぶん、幸せだと思いますよ。いっそ、そうなってしまいたいですね、ハハッ」
 僕がヤケクソ気味にそういうと、カウンセラーも、フフッと笑った。


「じゃあ、今から少し記憶喪失のフリをしてみてください。ゲームだと思って気軽に。」

 「わかりました」
 ゲームね… じゃあいっちょやったるか。(皆さんも一緒にやってみてください)

「ザ・記憶喪失ゲーム」

 僕は、よくマンガに出てくる「頭を強く打って記憶喪失になってしまった人」になりきってみた。

 一瞬で、さっきまでの出来事をスコーン!と忘れてみる、悩みも全部。
 俳優のように役に入りきり「ここはどこ? 私はだれ? あれ、サッパリ思い出せないぞ…」みたいな。

 やってみると、けっこう上手にできた。
 「はい、今、記憶が吹っ飛びました。」
 僕はカウンセラーにそう伝えた。

 「気分はどうですか?」
 こんなんで、気分が晴れるわけないでしょ!と言おうと思った瞬間、あることに気がついた。

 (あれ…、案外スッキリしてるぞ…。思いのほか気持ちいい。なんだコレ?)

 カウンセラーは満を持して言った。
 「スッキリしたみたいですね。先ほどおっしゃった通り、あなたは記憶喪失になったほうが幸せのようですね。

 それってどういう意味か、わかりますか?

「How to Do (行動)」 が変えられないのなら、「How to Be(在り方)」 を変えよ


「あなたは今ここで、記憶喪失のフリをして幸せになれた。ということは、本当はずっと幸せでいられるわけです。はじめから、その状態でいましょう。この状態を維持するよう、心がけてください」

 戸惑う僕に、先生はそう言った。
 「今日は終わりです。また会いましょう」

 え? はぁ? あ、いや…、違うでしょ。ちょっと、待った!
 「いや、先生、それじゃあ根本解決にはなってないですよね」

 カウンセラーは首を振った。


 「いいえ、大きな前進をしました。あなたは、過去の記憶に囚われて、未来を憂い、がんじがらめになっていました。何も行動できませんでした。

 しかし今、過去からはなれ “今ここ” に戻ってきた。あなたの “今ここ” の状態が、今、変わったのです。」

 確かに、変わった。さっきまでの状態と違う。

 「人生とは ”今ここ” が、ず〜っと続くだけのものです。たしかに、頭のなかには概念として、過去や未来といったものがありますが、現実世界は、ず〜っと ”今ここ” です。」

 あれ?もしかして、昔の偉い聖者が「ビー・ヒア・ナウ ( be here now )」っていってたのはこういうことだったの?


 「だから、 “今ここ” のあなたが素晴らしい状態であるように、意識の主として、見張ってください。

 そしてもし、あなたの頭のなかのタイムマシーンが動いて、意識が過去や未来にタイムスリップしそうになったら、すぐにストップボタンを押してください。

 その一つの手段がさっきやった記憶喪失ゲームなのです。」

 オーマイガー。わしゃあ、頭のなかが昔や将来にタイムスリップしまくっていたな。あの時ああすればよかったとか、あれは絶対許せないだとか、将来、お金が不安だな〜、とか、一生このままなのか、とか。ハァ〜昔にロックオンされて、将来も無意識のうちに決めつけておったわい。
 Zeroがいい、Zeroになろう、もう一回♪ ( by B’z )

  “今ここ” で楽しんでいる状態になる。確かに、そうすれば行動も変わってくるかもね。そうだよ、ずっと ”今ここ” じゃん。それなのに、 ”今ここ” にいないから、お留守のうちにイロイロおかしくなってたんだな、チッキショー!


その後「”今ここ” の私」は変わった。

 まず、小さなレベルから話すと、会社で頭が沸騰しそうな出来事に遭遇しても、「記憶喪失ゲーム」を5分ほど続けているだけで、「あ、忘れてた」状態になれるようになった。家で「最近、俺ばっかりが、この家事してるぅぅぅ〜!」と思っても、「記憶喪失ゲーム」を5分ほど続けていると、率先して気持よく行動できる。

 自分がどれだけ過去にとらわれ、怒ったり、スネたり、ヘコんだりしていたかに気がつく。脳ミソのなかにある過去や未来へ飛ぶタイムマシーンは、スイッチを切ってしまおう。時空に振り回されるな、時空の主人となれ。ビー・ヒア・ナウ、ビー・ヒア・ナウ。

 大きなレベルで言えば、過去の選択の失敗やトラウマなどを思い返しクヨクヨしたりもしなくなり、 “今ここ” から建設的にスタートできるようになった。

 人の感情には、愛と恐怖しかない。
 現代社会のすべての恐怖とダメージは、過去を引っ張りだして想起したフラッシュ「バック」。
 ”今ここ” にいようと心がければ、愛のある状態でいられる。あるがままのあなたでいられる。

 How to Do (行動) が変えられないのなら、How to Be (在り方) から、変えよ。

 あなたが何で生計を立てていようと、わたしには興味はない
 知りたいのはむしろ、あなたが何で胸を痛めているか、そしてあこがれとの出会いを夢見る勇気を持っているかどうかだ

 あなたが何歳だろうと、わたしには興味はない
 知りたいのはむしろ、あなたが愚か者に見えるのも覚悟のうえで、あえて愛を、夢を、生きるという冒険をもとめるかどうかだ

 あなたの星座が何座だろうと、わたしには興味はない
 知りたいのはむしろ、あなたがあなた自身の悲しみの中心に触れたかどうか、そして人生の裏切りによって心を開かれたのか、それとも縮あがり、さらなる苦痛を恐れて心を閉ざしてしまったのかだ

 わたしの苦痛だろうと、あなたの苦痛だろうとかまわない。
 あなたが苦痛に耐えられるかどうか、そして苦痛を隠したり、薄めたり、とりつくろったりするためにじたばたせずにいられるのかどうか知りたい

 わたしの喜びだろうと、あなたの喜びだろうとかまわない。
 あなたが喜びとともにいられるかどうか知りたい。あなたが野生とともに踊り、手足の先まで歓喜に満ちて、わたしたちに用心せよとか、現実的になれとか、人間の限界を思い出せなどと警告せずにいられるかどうか知りたい

 あなたの話していることがほんとかどうか、わたしには興味はない
 知りたいのはむしろ、あなたが他人を落胆させることを恐れずに、自分に正直になれるのかどうか、そして裏切ったと非難されても耐え、自分自身の魂を裏切らずにいられるかどうかだ

 あなたが誠実で、それゆえに信頼できる人間なのかどうか知りたい。
 きれいでない日常的なもののなかに美を見いだすことができるのかどうか、そして自分の生の源は神の存在にあると言えるのかどうか知りたい
 あなたが失敗に耐え、湖の縁に立って銀色の月の呼びかけに答えることができるのかどうか知りたい

 あなたがどこに住んでいようと、どのくらい金を持っていようと、わたしには興味はない
 知りたいのはむしろ、悲嘆と絶望の夜のあと、疲れ果て、骨の髄まで打ちのめされて、それでも起きあがり、子供たちのためにせねばならぬことをなしうるかどうかだ

 あなたが何者なのか、どうやってここに来たのか、わたしには興味はない
 知りたいのはむしろ、わたしといっしょに炎の中心に立ち、しりごみしないかどうかだ

 どこで、誰といっしょに、何をあなたが学んだか、わたしには興味はない
 知りたいのはむしろ、ほかのすべてが崩壊したとき、何があなたを内から支えるかだ

 ひとりぼっちでも平気かどうか、そして孤独なときの自分をほんとうに好きかどうか知りたい

ひとりぼっちでも平気かどうか、
そして孤独なときの自分をほんとうに好きかどうか知りたい

オライア・マウンテン・ドリー マー(Oriah Mountain Dreamer) 「Invitation」 (via mrkmre)

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今までで一番すごいと思ったBGMは『もののけ姫』の「無音」だな。シシ神の森での音の無いシーン、実はあそこには「無音」のBGMが流れている。なんと、わざわざ愛知県新城市にある鳳来寺山で収録された由緒正しい(?)「無音」なのです。それがあるのと無いのとでは動画の印象が違うんだってさ。